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■ 「枯尾花」 …………………… 金田房子2003. 5.17

 もう五、六年も前のことになる。申し訳ないことにお名前も忘れてしまった。放送大学の面接授業で、「芭蕉の造語というのもあるのですよ。」というお話をしていた時に、「枯尾花」について、「これもそうではないでしょうか。」とおっしゃった学生さんがいた。理由が、『日本国語大辞典』でそれ以前の用例がなかったから、ということだったので、「そうかもしれませんが、もう少し調べてみないとわからないですね。」という曖昧な返答で、お茶をにごしてしまった。
 その後、ずっとそのことが心にひっかかって、本当に芭蕉以前の用例がないものかどうか、きちんと調べておきたいと思っていた。
  「枯尾花」を、『新編国歌大観』をはじめ、各和歌集・中古中世の物語類・その他の索引類を手当たり次第に調べていった。確かにない。「尾花枯るる」「枯薄」などはあるが、成語としての「枯尾花」は見当たらない。連歌寄合書の類では、「枯立薄」である。
 歳時記における初出は、管見の範囲で、『通俗志』(胤矩著 享保元〈1716〉年成、同二年才麿序)である。やはり、芭蕉の造語と考えてよいのではないだろうか。
 『おくのほそ道』の旅から、足かけ三年ぶりに江戸へ戻った芭蕉が、「重ねてむさし野にかへりし比、ひとびと日々音づれ侍るにこたへ」(『雪の尾花』所収前書)て、

   ともかくもならでや雪のかれお花

と詠んだ時、「枯尾花」という新しい言葉は、迎えた江戸の弟子たちにとても印象深く、師芭蕉のイメージと結びつき、話題にもなったのではないだろうか。後に其角が、芭蕉を悼む集の書名にも用いたのは(『枯尾華』元禄七〈1694〉年刊)、その思い出の故でもあったと思われる。
 そして、これによって「枯尾花」は広く人口に膾炙し、季語としてとりあげられるようになり、蕪村らの句に詠みこまれていくことによって、一般的な言葉になっていったと思われる。
 芭蕉が初めてこの語を用いたときの新鮮な響きに、今一度耳を傾けたいものである。