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■ 紀伊国屋文左衛門の俳諧活動… 千野浩一2003. 6.21

 紀伊国屋文左衛門(俳号、千山)は、其角・仙鶴・祇空・才麿らと親交があり、沾竹編『五十四郡』(宝永元年〈1704〉頃成)をはじめ、立詠編(立詠・千山共編とも)『庭の巻』(宝永2年〈1705〉刊か)、仙鶴編『十二月箱』(同6年〈1709〉刊か)、祇空編『鎌倉紀行(鎌倉三五記)』(同6年〈1709〉刊か)など約40点の俳書に入集し、また祇空の後見のもとに、10歳になる息千泉の疱瘡快癒を祝って『百子鈴』(宝永6年〈1709〉刊)を自ら編んだことなどが知られている。一方、俳諧以外では、紀文と同時代の紀文関係資料は意外に少ない。浮世草子では、『吉原一言艶談』(宝永4年〈1707〉刊)が紀文らしき人物の逸話に言及する最初期の作品かと思われ、「紀伊国屋文左衛門」の名前がはっきり示されるのは月尋堂作『子孫大黒柱』(宝永6年〈1709〉刊)で、「ふゆき弥平次、きいの国屋文左衛門、三もんじ屋与右衛門、是当代の町人のかゞみ、銘々の利発ゆへ大身体と成」などとある。団水作『日本新永代蔵』(正徳3年〈1713〉刊)には「紀惣」なる人物が登場するが、息子を京に上らせて修業させる話は、紀文とその息がモデルではないかとする説もある。その他のジャンルでは、秀松軒編『松の葉』(元禄16年〈1703〉刊)、真田増誉著『明良洪範』(元禄年間〈1688ー1704〉編か)、『吉原徒然草』(宝永頃〈1704-1711〉成)、『吉原雑話』(正徳・享保年間〈1711-1736〉)等が紀文と同時代に成立した紀文関係資料であるが、詳しくは、上山勘太郎(柑翁)著『実伝紀伊国屋文左衛門』(明治書院、1939.4)を参照されたい。
 筆者は以前、和歌山県湯浅町教育委員会企画の紀伊国屋文左衛門に関わる資料調査業務に携わる機会に恵まれた。調査に際して『実伝紀伊国屋文左衛門』巻末に付されている、千山・千江・千泉父子の発句および入集俳書の一覧が大変便利であったが、これに未掲載の千山句入集俳書を数点追加しておく。なお、船水暢子氏が同じく、千山について詳細な調査を行い、本研究例会で「紀国屋文左衛門と俳諧」(平成11年11月20日於江東区芭蕉記念館)として発表された。その折に配布されたレジュメが今のところ千山の俳諧活動について最も詳しいものと思われるので、厳密な資料としてはそちらを参照されたい(下記の俳書についても言及されている)。

 ・(亜提編『三家雋』より)『鶏筑波』
 ・(『三家雋』より)『庭の巻』上巻 立詠(・千山)編 宝永2年(1705)刊(推定)
 ・(『三家雋』より)『青流歳旦』祇空編 宝永4年(1707)刊
 ・『東遠農久』百里編 宝永5年(1708)跋
 ・『宝永八辛卯年東武館柳吟』仙鶴編 宝永8年(1710)刊
 ・『金龍山』東鷲編 正徳2年(1712)9月序
 ・『〈俳/諧〉耕作』沾石編 正徳2年(1712)9月跋
 ・『石霜庵追善集』芳室編 享保18年(1733)刊

*『青流歳旦』『石霜庵追善集』については、櫻井武次郎著『元禄の大坂俳壇』(前田書店、1979.9)184〜186頁に指摘がある。

 なお、『実伝紀伊国屋文左衛門』によると、享保20年(1735)の露月の歳旦帖『乙卯歳旦』(原本所在不明、未調査)に千山句があるとしている。この時期に活躍した千山号の俳人がもう一人おり、この露月歳旦帖の千山は、おそらく、露月編『名物鹿子』(享保18年〈1733〉刊)に「飛団子(前書) 梅は飛ぶさくらは杵のだんご哉 菊丸改千山」とある、菊丸(菊麿)のことであろう。菊丸は、享保15年〈1730〉刊の露月他編『二子山』に「菊麿」の号で入集、同じく露月他編の『卯月庭訓』(元文3年〈1738〉跋)には「千山」の号で入集している。一方、紀文も、享保18年(1733)に『石霜庵追善集』に句を寄せていて紛らわしい。
 さて、このような経緯で千山に興味を持つようになったのだが、昨年夏、日光に旅行した折に、たまたま中禅寺湖畔にある中禅寺境内で紀文のものとされる句碑を見つけた。本句碑は、日光市内にある「紀文三句碑」の一つで、昭和61年に、日光市によって「日光文学碑散策路」の「紀文句碑 三」として設定されたものである。句は「夏の夜や蚊につゝかれて月を見る」、前書はほとんどが判読不能ながら「李喬」という名が見える。その傍らに掲げられている解説には、「建立月日もわからないが、他の二碑が、いずれも紀文の死後に建てられており、その頃に、遺族か関係者が建てたものと考えられる」とある。もちろん、本当に紀文関係者によるものであるか否かは分からない。
 その後、再び日光を訪うことがあり、「紀文句碑 二」を見ることができた。中禅寺湖・いろは坂から日光駅方向に少し戻ったところ、清滝の清瀧寺観音堂に、この句碑は建てられている(最寄りのバス停は「清滝一丁目」)。句は「右中せんし 左あしをみち/山高水長(前書) 青葉からひと雫づつ大谷川 東江李喬」、碑の裏にも文字が刻まれており、これもまた判読しにくいが、裏面向かって右側に「江戸本所/紀伊国屋/□(*判読不能)之」、左側に「元文五庚申初夏」とある。解説によると、「中禅寺と足尾への道標を兼ねているので、追分の碑とも呼ばれている」という。残念ながら、「紀文句碑 一」をまだ見つけることができていない。散策路であるから、清滝よりさらに日光駅寄りのどこかにあるのかもしれない。今度は、裏見の滝から神橋へと、句碑探しを兼ねて日光の小道散策を楽しみたいと思う。