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■ 巨大な芭蕉句碑 ……………… 塚越義幸2003. 5.17

 わたしのふるさとは群馬県藤岡市です。藤岡市は群馬県の西南部で、関東平野の北のはずれに位置し、東隣はもう埼玉県の県境の都市です。(人口は今年の7月現在63,864人)。和算の大家関孝和が生まれた地として知られ、俳諧では『俳諧手桃灯』の著者として知られる桐淵貞山(1662〜1749)が誕生しています。
 このまちには、高橋貴一氏の『群馬県文学碑目録』(寸草堂 1969.7)によると、芭蕉の句碑が12基ほど(群馬県全体では199基)現存し、その中に2メートルをこす巨大なものがあります。それは今では、市指定重要文化財の「芭蕉塚」としてまちの名所にもなっています。芭蕉は貞享五年(1688)の『更科紀行』の旅の際、帰路を中山道にとり、門人越人と碓氷峠を越え、高崎宿そして藤岡の北部の中島・立石(たついし)地区を過ぎって、新町宿・本庄宿へと歩を進めました。芭蕉とも多少ゆかりのある藤岡市にあるこの巨大な句碑について紹介してみたいと思います。
 この碑は、まちの南西部の山間の上日野鹿島にある養浩院(臨済宗)境内に建てられています。すぐ近くを、名前の通り鮎釣りで有名な鮎川が流れています。碑表には、

  しばらくは 花のうえなる 月夜哉  芭蕉翁

と刻されてます。この芭蕉の句は、『初蝉(はつせみ)』(元禄9年刊)などに所収され、真蹟短冊では「之道万句」と題されており、門人之道(しどう)の万句興行の時期が元禄4年(1691)春と推定されるので、その頃の作だと思われます。之道の宗匠立机披露に行れた万句興行を祝って、満開の夜桜の上にある朧月夜をしばし眺めようとの句意になります。
  この句碑は、隣に立てられた説明板によると、碑身は237センチ・幅128センチ・厚さ10.3センチ(実際は最厚16センチほどある)の緑泥片石で、明治3年(1670)に当地の俳人たちが伊賀上野にある芭蕉の墓に参詣し、金2円を寄進して墓土を受け、俳塚の形式をとって建てられたもののようです。碑文字は武州八幡山(現埼玉県児玉町)の俳人橿寮(かしわりょう)青荷(明治2年頃没、行年80と碑陰にあり)の筆で、極太の雄壮な筆勢で巨大な句碑に整合しています。建立者は宮沢風梅(1813〜1884)という地元上日野生まれの俳人です。
 とにかくこの碑はその大きさと文字の豪快さには驚愕します。本多夏彦氏は『上毛芭蕉塚』(みやま文庫30 1968.10)で、

  当時この碑を携えて近江義仲寺へ登録申請の際、日本一の折り紙つきのシロ物。
  とかくでかいのは俗のものだが、ここではこれでなければ納まらない。中風病み
  の武州児玉の青荷が八十歳で右手に筆をしばりつけて書いた一世一代の置遺品だ
  という。

と説明されています。誇大な内容かもしれませんが、碑を目の当たりにするとすぐに納得されることでしょう。伊賀上野まで出かけ墓土を受けてまで、芭蕉塚をしかも巨大石碑として築こうとしたわがふるさとの俳人たちの熱意が実感できたような気がします。

参考図書(上掲以外)
 『季刊群馬風土記』VOL.61 春季号「群馬の芭蕉(藤岡編)」 2000.4
 『上州路』第34号「 群馬の文学碑」 1977.3
 『群馬県の文学碑』 みやま文庫44 1971.11