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■ ふるさと再発見 ………………… 鈴木秀一2003. 9.20

 私の生まれ故郷は、神奈川県逗子市である。現在も墓参で時折訪れるが、ここ二十年ぐらいの街並みの変貌ぶりは驚くほどである。かつて駅前には小さな土産物屋もあり、観光地の面影を残していた。しかし今では駅から離れるにつれ、昔からの家並みに混じってマンションやアパートが目立つようになる。今や東京・横浜へ通勤する人のベッドタウン化が進んでいることをうかがわせる。
 子どものころの私にとって、祖父母の家があった逗子は一番身近なワンダーランドであった。祖父母の家は海岸に近い新宿というところにあった。静かなお屋敷や企業の保養所が多く、東京に住んでいたわたしの家族は、夏休みにはひと月近く泊りがけで遊びに行っていた。蝉を捕まえるのに夢中で、従兄と二人でお屋敷の庭にいつの間にか入り込んでしまうことも度々であった。一面緑の芝生で覆われた古い西洋館の庭、苔むした岩に囲まれた小さな池のある日本庭園、そして、海岸近くのせいか、棕櫚の植え込みと大きなシャコ貝で飾られた別荘風の家の玄関などは東京では見たこともなく、いつかここに住んでみたいと思っていた。私には、逗子の街から感じられるどこかあかぬけのした保養地の趣が物珍しく、歩いているだけでも楽しかった。
 母が幼いころには、隣りには有名な政治家が住み、向かいには横須賀鎮守府に勤務する高級軍人のお屋敷があったという。徳富蘆花の小説『不如帰』の舞台となった時代の別荘地の面影が、今以上に残っていたそうである。蘆花ゆかりの『不如帰』の碑のある逗子海岸の岩場は、私にとっては磯遊びの場であった。「浪子不動」は、その岩場から急斜面の坂を上った所にある小さな祠である。さらに上ると披露山公園となり、そのふもとには静かなサナトリウムもあった。浪子は結核のため逗子の別宅で療養するが、保養地としての逗子の姿も、幼いころに見た逗子の風景の中にしっかりと収まっていたのである。
 逗子ゆかりの作家といえば、泉鏡花もそのひとりに数えられる。明治三九年から四一年まで逗子に住み、代表作である『婦系図』もここで執筆された。披露山近くの大崎公園には、平成二年に建立された、鏡花直筆の俳句を刻んだ碑がある。

  秋の雲尾上のすゝき見ゆるかな  鏡花

 母から水晶製のウサギのおもちゃを贈られて以来、鏡花はウサギをたいそう好んだというが、この句碑はそのウサギの形をしている。この碑は、句の内容とウサギに因んで、海が見え、すすきが自生するこの地に建立されたという。明治三九年八月に書かれた『逗子より』という身辺雑記に、「なかにも、尊く身にしみて膚寒きまで心涼しく候は、当田越村久野谷なる、岩殿寺のあたりに候。」と紹介されている岩殿寺には、鏡花の参詣に因んで「鏡花の池」と命名された池がある。その池は本堂の裏山の奥の院の脇にあり、その前には、山間に逗子の海が眺望できる絶景が広がっている。逗子を歩いていると、鏡花の句に詠まれたような、自然味豊かな風物に今でもふと出会うことがある。
 先日墓参の折に遠回りをして、かつて蝉を追いかけて迷い込んだ路地に入ってみた。細い道をたどっていくと、小学生時代の逗子の姿がよみがえってきた。そこには、百坪前後の古い家があり、年月を経た古い門の後ろに見える手入れの行き届いた庭には、棕櫚や芭蕉が植えられ、横のガレージにはさりげなくサーフボードが立てかけてある。穏やかでゆっくりと時間が過ぎてゆく、幼いころの逗子の原風景をそこに発見したとき、久しぶりに本当のふるさとに帰ってきた安心感を覚えた。