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■ 大塚―含秀亭 ………………… 稲葉有祐2004. 1.22

 幼い頃は護国寺に遊んだ。墓場には寄りつかなかったが、山門の絵を描いていた記憶がある。毎日のように通った場所である。
 天和元年、護国寺は五代将軍綱吉の生母、桂昌院の発願により創建された。延宝から天和とは俳壇に漢詩文調の流れた時代。夕暮にはさぞかし烏のとまったことであろう。
 仁王門を出ると音羽通りがのびている。傍らに地下鉄の駅が見える。この営団有楽町線護国寺駅から丸ノ内線茗荷谷駅にかけて、現在のお茶の水女子大学をはじめとする学園街周辺は、かつて安藤対馬守家下屋敷であった。交通量の多い大通りに拮抗する高層のビル群を外れ、裏路に残る古い街並みを歩く時、ふと思い起す。この辺りが大塚の町である。

    山中閑寂人跡稀ナリ
  音羽から音あるものや花の蔕

 安藤家五代信友公は俳諧を宝井其角に師事、号を冠里としてその奇才を発揮した。前号を行露という。貞享二年十二月二十八日従五位下長門守に叙任し、元禄十一年十月三日父重博の遺領を継ぎ、備中国松山藩主となる。後、享保三年八月四日大坂城代に補せられ、従四位下に昇り、八日対馬守に改め、同七年五月二十一日より老職を務めている。名君であるとともに洒落を解する人物であった。
 「十万坪口でこそいへ峰の松」とは、この安藤家下屋敷を詠んだものとして伝承された句である。実際のところは『焦尾琴』巻頭「うぐひすや」歌仙に出る其角の「付句」に過ぎないのであるが、事実、その敷地は広く、一口で言えるものではないようだ。
 後世、文化十三年にここを訪れた十方庵敬順の『遊歴雑記』には「谷へくだり坂をあがり広場へ出、山へ登る」と記されている。息切れが聞こえてきそうな文である。そしてまた、「山上の平かなる處」にあったのが、信友公の設営した「含秀亭」である。
 含秀亭からは「富士峯を山つゞきに」望めたという。其角にも「含秀亭」と前書する「富士に入日を空蝉やけふの月」の句があった。霊峰を眺めながらの風交があったのであろう。今でも護国寺から大塚三丁目交差点へ上る坂を富士見坂として、周辺に景観の名残を留めている。一番の高台なのである。その麓が音羽の町となる。
 さて、「含秀亭花中吟 五吟」から一つ採り、先に挙げておいた。句は地名の「音」羽を詠み込みながら、花の宴の過ぎた静けさを微細な感覚で添えている。

  油符を鯛合せとぞ恵比寿抱

 一方、こちらは威勢が良い。これも含秀亭における俳諧の一コマである。宝永元年、冠里公主催、其角判詞の七十番発句合「待宵」、「をのがね鶏合」は二巻併せて一篇、闘鶏に因んだ趣向となる。「待宵」に出るこの句で冠里公は其角の異色の高点印「半面美人」を得た。「油符」は判詞「油生」。チャボに「油毛」という名の種があり、「生(フ)」は両翼や下腹の白い鶏のことなので、油色に白のチャボを指すのだろう。鶏合を目前にして、エビス様が鯛を抱くように、反り返る鶏を抱いている様子を活写している。これが其角に「此そり天下一」と絶賛されるところとなった。溢れる生命力がある。
 因みに、「大塚」とは、太田道灌が築いた七つの物見塚に由来すると一説にいう。この東には駒込鶏声ヶ窪が見渡せる。道灌の物見塚は鶏声ヶ窪にもあり、そこを東大塚と称するのであった。こちらは夜毎に鳴く金銀の鶏を掘り出した伝説の地。このように西と東、大塚は鶏の音が響くようである。どうにも勝手な想像ながら。


(附記)
 含秀亭の「含秀」は草木が芽をふくむこと。そこでは様々な「興」があったことであろう。ただ、現在では精確な所在を詳らかにしない。