[戻る]
■ 私の伊丹 ……………………… 渡辺誠一2008. 2. 1

 血縁はそこにはない。友人もいない。遊び疲れて、いつも見慣れた山や川や森を見ながら家路を急いだという記憶があるわけでもない。そんな土地を故郷と呼べるのかどうか。しかし、それが生まれた土地となると話は違う。伊丹は私にとってそんな土地である。ただし、生まれたあと、西宮、尼崎と転々とし、物心がつく頃には東京へ埼玉へと、誕生の地は遠のくばかりであった。もちろん伊丹という地名は戸籍に残り、何らかの節目で、公然と顔を出す。「生まれは?」と聞かれれば「伊丹」と答えるほかはない。が、その地をあえて訪れてみようと考えたことは、あまりなかった。
 誕生以来訪れることのなかったその地に再び立つことになったのは、それから実に半世紀を経てのことであった。折も折、私の愛する阪神タイガースがリーグ優勝を目前に控えていた平成15年9月、しかし街にはそれを思わせるような喧騒はなく、むしろ「伊丹といふは町のほどやゝ長し。家毎に酒をつくりて国々に出しうる所にて、ひとの家居もよく、ゆきゝもいとにぎはゝし」(有馬日記)という本居大平の言を思わせる。
 大学の卒業論文で蕪村をとりあげた私は以来、彼との付き合いが続いていたが、その年、柿衞文庫と逸翁美術館とで蕪村展が開催されるとの情報に矢も楯もたまらず、この地に足を向けたのであった。生まれて間もない頃のこととて、記憶がよみがえるはずもなかったが、しかし、柿衞文庫に向かう道を一歩また一歩と足の裏にその感触を確かめていたような気がする。
 柿衞文庫では岡田彰子先生の公演も拝聴出来、そればかりか会場では雲英末雄先生にお会いするという偶然も重なり、まさに記憶に刻まれる<伊丹の一日>となった。

 さて、伊丹といえば鬼貫、その土地の人々が彼に寄せる思いには浅からぬものがあるが、私はと言えば、この地に生を享けながらもさして身近に感じたことはなかった。また、蕪村が鬼貫を愛したことは知っていても、あまり意識しなかったのは、ひとえに私の怠慢と言う他はない。JR伊丹駅近くの銀行の正面には「にょっぽりと秋の空なる富士の山」の碑が建ち、道行く人々を迎えてくれるが、こんな私にも、「よく来たね」と言ってくれているように思えたのは、少々虫が良すぎるであろうか。尚この碑、石面上部が富士の山そっくりで、この地の人々の鬼貫に寄せる想いが伝わってくるようである。
 鬼貫は後に蕪村の心を捉えることになる。先達としてだけでなく、具体的な句作りにおいても少なからず影響を与えていることは明らかであろう。目にとまったものを拾うと、
  君見よや拾遺の茸の露五本  蕪村
は、
  君見よや田舎の花の黒き事(仏兄七久留万)
が、等類を百も承知のうえでまるで鬼貫に和したかのようだし、
  青梅に顔をしかめぬ味をしれ(仏兄七久留万)
に少し手を加えると、
  青梅に眉集めたる美人かな  蕪村
となる。また、これは誰でも知っている、
  菜の花や月は東に日は西に  蕪村
も鬼貫の得意とした独吟連句に見る、
  出る日の入日になれば月出て(大悟物狂)
の構図が採用されたのかも知れず、この手のものは、探せばいくらでもあるのではないか。蕪村を読む上で鬼貫をもう少しまじめに読み直そう(反省!)。

 伊丹は酒処でもある。松江維舟と共に伊丹にやってきた池田宗旦は、それに味を占めて居ついてしまったと言われているぐらいである。そう言えば柿衞文庫の手前にも立派な作り酒屋があった。伊丹に限らない。周辺はまたとない環境にある。翌日は、近くの池田にある逸翁美術館へと赴いたが、駅からの商店街の一角にはかって喉を通過したことのある、その名も<呉春>の酒蔵があった。逸翁美術館で蕪村の絵画を堪能した後、商店街の酒屋で<呉春>を購入したことは言うまでもない。但し心残りがひとつある。肝腎の伊丹の酒を味わうのを忘れてしまった。鬼貫さんが知ったらただじゃ済まないであろう。が、また訪れるであろう機会にとっておくことにしよう。
  淀川に姿重たや水車  鬼貫
 無季ではあるが、どこかけだるい春の一日を思わせる。幼い頃、淀川べりで遊んだであろう蕪村もまた、同じような光景を目にしたかもしれない。その緩やかな回転にあわせるかのように、深く心に刻み込まれた記憶を手繰り寄せながら、蕪村は「春風馬堤曲」を書いたのであろう。しかし私には手繰り寄せるような記憶がない。もとより伊丹に生まれたのは偶然にすぎない。しかし、この偶然という幸運を今、鬼貫さんと勝手に分かち合いたい。この日を境に、故郷は私にとって戸籍だけのものではなくなった。
  つくづくともののはじまる火燵かな  鬼貫