[戻る]
第13回 亀歳「黄鸝の」2006. 3.20


縦19.6×横26.4cm






 三月の声を聞くと明るい気持ちになる。雪をはらんだ二月までの張りつめたような風と弥生の風の色は間違いなく異なっている。二月の風の色はくすんだ青だが、三月の風は明るい青だと思う。春がそこまできているのだ、と感じることができるこの季節は嬉しい。


 亀歳「黄鸝(うぐいす)の声の春にハ啌(うそ)もなし」は、上手い句とは言えないが、鶯の鳴く音を聞くと間違いなく春がやってきている、と素直に喜ぶ心に共感できる。
 斗白「素手で帰る人ハあらじな小松引」は、「小松引の日に素手で帰るような人がいるはずもない」の意。斗白は『新撰俳諧年表』に「塚田氏、称幸右衛門、積翠門、江戸人」という人か。小松引は、子の日の遊び。平安時代の貴族の遊びで、正月初めの子の日に、野に出て小松を引き抜いて、一年の幸を祈る行事。理屈の句だが、祝いの気分が感じられる。
 梅雪女「君が代や門松風の袖を吹く」は門松をわたる風が袖に吹き込むさわやかな正月気分で君が代を寿ぐ。
 月国「しるまいぞ思へば野梅いつのこと」は、狂言の常套的な台詞「やるまいぞ、やるまいぞ」をもじったのだろう。「知るまいぞ、知るまいぞ 野の梅が咲いたのはいつのことか」。


 最近、これを入手したばかりで、亀歳・斗白・梅雪女・月国ともに私にはわからない。面白いのは、この摺物の絵である。弁士らしきザンギリ頭の人物がペン立てらしきケースとともに描かれている。しかし、その服装は洋服ではなく、鶯色の羽織に茶色の横縞が入った袴をつけている。なんとも中途半端な姿、この人は何者なのだろうか。
  散切り頭からすれば、年記の「丙申春」は、明治二九年(一八九六)以外には考えられない。


※絵師を仮に「何亭」と読んでおいたが、誤読かもしれない。江湖の諸賢にお教え願いたい。