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第15回 雷神と唐獅子俳諧一枚摺2006. 7.28


縦43.2×横56.3cm






 夏の暑さに参っていた六月中とはうってかわって、この七月中旬は忘れていた梅雨の雨。それも大雨で、長野県の岡谷市や岡山など各地に被害を出している。改めて自然の恐ろしさを思い知らされた。
 
 先日、坪内稔典氏「船団」グループの中原幸子さんから句集『以上、西陣から』をご恵投いただいた。書名は「雷雨です。以上、西陣からでした」に由来する。中原さんの句は、「熱燗を待って新聞は四角」「猫の恋クリーニングに出しちゃうぞ」「満場ノ悪党諸君、月ガ出タ」など、今に活きる「潔い笑いの俳句」と思って楽しませていただいている。

 暑くて困っていた六月中には、宮坂静生氏「岳」グループの堤保徳氏から句集『インド洋の虹』をいただいた。書名は「インド洋より太々と冬の虹」に由来する。堤さんの句は、「ふるさとは捨てし筈なり半夏生」「朧夜のマリア・カラスよとこしなへ」「人去れば牛も去りゆく牧の夏」など、なつかしい。こちらは「永遠の青春俳句」と思って楽しませていただいている。

 現代俳句が面白いのか、それともいただいたお二人の句が上質なのかわからないが、俳句のような小さな文芸を大事にしてゆきたいと願っている。


 ところで、今回の一枚摺は、絵が面白い。「慕(模カ)北窓翁図  周岱(印)」とあるが、「周岱」については未詳。「北窓翁」は、周知の通り英一蝶(承応1〔1652〕〜享保9〔1724〕)。この図の雷神は間違いないが、雷の脚にしがみつく「化け物」は、何だかよくわからない。仮に唐獅子としたが、学生は「河童だ」とか「海坊主だ」とか、言っているので自信がない。

 年季「丙午之夏」は、弘化三年(1846)だろう。ところが、一枚摺の巻頭の春成はじめ巻軸の春室がどんな人かわからない。竹二は『芭蕉翁正伝』の著者だろうか。竹二なら、『新撰俳諧年表』によれば、「天保六年(1835)没、十一月廿六日、享年七十六、五道庵と号す、伊勢津藤堂侯の待医、後ち武蔵秋父に隠栖す」。
 この一枚摺に収載されている57人は、ほとんどわからない。ただ京山は、山東京伝の弟、京山か。ならば、安政五年(1853)没、九月二十四日、享年九十、岩瀬氏、名百樹、字鉄梅、称利一郎、鉄筆堂、山東庵、方半居士、覧山、涼仙の号あり、京伝の弟、戯作者、江戸人、狂歌を能す(『新撰俳諧年表』)。また、乙彦は戯作者梅暮里谷峨か。乙彦は、明治十九年(1886)乙彦没、二月二十八日、享年六十一、萩原氏(本姓森氏)、称吾一郎、十時庵、対梅宇と号す、江戸人、梅暮里谷峨と称する戯作者なり(『新撰俳諧年表』)。


 このほか『新撰俳諧年表』によって、次の人々の句が入集している可能性がある。

 「伍風 出川氏、称金吾、寒濤と号す、佐渡相川人」「竹鶯 平野氏、称兼治、臨川舎と号す、丹後人、慶応年中」「竹泉 文久二年 亀卜没、正月十五日、享年六十三、正宗氏、名直胤、称柳吉、竹泉亭、六石園飯持と号し、狂歌を能す、屋烏門、備前人」「梅九 明治七年 永海没、十二月廿二日、享年七十二、佐竹氏、愛雪、周村、梅九、成堂と号す、彦根藩画師、会津人、江戸住」「春暁 柳眠、田原氏、称惣八郎、春暁庵と号す、江戸人」(または「春暁 里草、大島氏、春暁洞と号す、里雀門、信濃人、江戸住」)「文柳 天保三年 没、三月二十四日、享年六十三、多賀氏、称六左衛門、徐風庵と号す、古梁坊の男、美濃人」「常晴、金子氏、称平次右衛門、梅見庵と号す、新潟人、文久年中」「涼々 右水、山田氏、名寛董、称稠五郎、涼々と号す、佐渡相川人、嘉永年中」「秋雄 古沢氏、称一郎、圭樹園と号す、武州世田ケ谷人」「五峰、三日坊と号す、常陸人」「梅逸 明治二九年没、十二月二十九日、享年三十、谷中観智院に葬る、江沢氏、通称万屋松五郎、不心庵、六々亭、金鱗の号あり、東京人、果物問屋を業とす」「万外、道彦門、加賀人」「柳皐、通称湯屋利助、緑水舎と号す、越後水原人、文久年中」「芳雨、田中氏、称佐平治、摂津人」。