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第16回 蒼虬「来る秋や」2006.11.19


縦37.0×横50.5cm






 この初秋、荒れ模様の天候のために海と山で遭難事故が相継いだ。時として自然は残酷である。四時を友とする文芸である俳諧は、こうした破壊する荒々しい自然をも受け入れなければならない。・・・とは言え、災害を詠んだ句を俄に思い浮かべることができないのは、私が無知だからだろうか。それとも自然を畏怖したからこそ、俳人たちは「花鳥風月」にしぼって詠み続けてきたからなのだろうか。


  今回は、富士山の俳諧一枚摺りを紹介したい。富士山は、古来数限りなく描かれ続けた名山である。文化七年十月二十二日に他界した春坡の句があるから、これ以前の出版となるが、正確な年次はわからない。名古屋の逸人が巻軸、京都の梅價と江戸の道彦、大坂の奇淵など京都・大坂・江戸の三都の俳人の他、加賀の蒼虬(京都住だろう)を巻頭に梅室(雪雄)や士朗など文化期を代表する俳人の句が多くみられる。
  画師の「玉洞」は、未詳。俳諧一枚摺は、素人画師の絵も多く、来歴未詳の人が少なくない。北斎や北渓、豊広、窪俊満などの画師による豪華な多色摺の狂歌摺物とは対照的である。この一枚摺は、冠雪をいただいた見事な富士山が描かれているから、玉洞は巻軸の逸人と縁がある玄人だと想像するが、わからない。江湖諸賢の教えを請う。


  以下、一枚摺に見える俳人の略歴を記しておこう。
 蒼虬 宝暦11(1761)〜天保13年(1842)3月10日、82歳。東山妙伝寺に葬る。成田利定、通称久左衛門。加賀藩士。南無庵二世、芭蕉堂二世、対塔庵と号す。闌更門。京都住。梅室、鳳朗と共に「天保三大家」。闌更を継いで『花供養』を出版。
 春坡 寛延3(1750)〜文化七年(1810)10月22日、61歳。下村兼邦、通称孫八郎。遅日亭と号す。几董・蕪村門。京都の人。呉服商美濃屋大丸の主人。編著『小鳥・小艸』など。
 雪雄(梅室) 明和6(1796)11月27日〜嘉永5年(1852)10月1日、84歳。桜井氏、諱能充。初号、雪雄。素芯・素信、方円斎、遅速庵、寒松庵、余花園、相応軒、陸々道人等と号す。闌更門の馬来に学ぶ。加賀金沢の研刀士の家系に生れるが、職を弟子に譲り、文化元年(1804)上京。文化六年から年次句集『四時行』を刊行。
 士朗 寛保2(1742)〜文化9年(1813)5月16日、71歳。井上正春、通称専庵(のち松翁)。初号支朗、枇杷園、朱樹叟。暁台門。名古屋で医を業とす。国学を本居宣長、絵を勝野范古に学び、漢学もよくした。江戸の道彦、京都の月居と共に「寛政の三大家」。編著『枇杷園七部集』など。
 道彦 宝暦7(1757)〜文政元年(1819)9月6日、63歳。鈴木氏、諱、由之。金令舎、十時庵、藤垣庵と号す。白雄門。陸奥仙台の藩医、寛政末年(1801)頃から江戸に住み、医を業とす。発句集『蔦本集』、没後に『続蔦本集』。
 梅價 安永2(1773)〜天保14年(1843)3月3日、71歳。喜多川公香、字子国、通称万象。枯魚堂、伴山翁等と号す。闌更門。京都西本願寺の医官。編著『枯魚七部集』など。
 奇淵 明和2(1747)〜天保5年(1834)5月18日、70歳。菅沼氏。花屋庵、大黒庵、七杉堂、桃序等と号す。二柳門。大阪の人。年次句集『花市会・松風会』『かれの会』を出版。
 逸人 安永3(1774)〜文政12(1819)11月3日、56歳。加藤氏。名肅、字退夫か。梅樹軒、酔月庵、思永堂と号す。白尼門。江戸の道彦に師事し、足彦と称す。尾張琵琶島の富豪。編著『酔月集』『続曝臼』『四季三番叟』など。