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第17回 鶴童「空を封切る扇」2007. 3.11



縦37.8×横50.5cm






 例年ならば、大雪に悩まされ、寒さにふるえ、春を待ちわびて、ひな祭りの声を聞くと春が来た……と安堵するのだが、今年は昨年来の暖冬異変、積雪もなく温暖な日々が続いている。雪が降れば降ったで自然をうらみ、降らなければ降らないで、いつかしっぺがえしが来るのではないかと不安になる。勝手なものである。
 さて、座元相続祝いの俳諧一枚摺を紹介したい。歌舞伎役者が俳諧に遊んだことは良く知られているが、歌舞伎の親玉市川団十郎を除いて、その実際は明かにされていないように思う。そう思うのは、私が無知だからだろうが、それを逆手にとって気ままに推測を述べてみたい。江湖諸賢のお教え、お叱りをいただければ幸いです。
 この摺物は、幕末期の成立だと思う。鶴童は、歌舞伎役者中村勘三郎(十三代)の俳号ではないだろうか。寿長・舞雀・沙長は、いずれも分からない。巻軸の松寿軒は、西鶴の軒号として有名だが、これは幕末期の俳人閑里のことだろう。『新撰俳諧年表』によれば、閑里は「下山氏。称千蔵。松寿軒と号す。遠江人。江戸住。天保年中」。
 閑里の祝いの発句「今や猶鶴の影見る」は、最初は舞鶴、のちに隅切角に銀杏となった中村座の櫓紋に因んで「鶴の影」と詠んだのではないか、また舞雀の発句「住み馴て銀杏の古し」は、角切銀杏の中村座の櫓紋に因んだ句ではなかろうか。この一枚摺の絵「門松」を踊る太夫の紋に見える鶴は、中村勘三郎家の「舞鶴」ではなかろうか。
 巻頭の「朔日の空を封きる扇哉」は、前書「此櫓の基起してより貮百弐十余年の栄へを寿ぎ、十三代相続の有がたさを」と響き合って、自信に満ちた颯爽とした舞台―封切りを思わせる。220年程前に開基した「この櫓」とは、寛永元年(1624)初代中村勘三郎が猿若座を創設したことを言うのではなかろうか。中村座と改めたのちも、<猿若>は中村家の家狂言として代々継承してきた。これも、絵と合致していると思う。
 なお、十三代中村勘三郎の「座元相続祝いの俳諧一枚摺」と推測してきたので、近藤瑞男氏「中村勘三郎」(『歌舞伎事典』)によって、やや詳しく紹介しておきたい。
 「十三代中村勘三郎(1828〜95)は、嘉永四年(1851)座元を相続したが、幕末から清栄不振が続き、明治八年には三世中村仲蔵に座元を譲った。ここに、江戸歌舞伎中もっとも古い歴史をもち、血縁にのみ名跡を継承させ、座元の地位を保った中村勘三郎の名跡は断絶した」。
 鶴童が、十三代中村勘三郎だとすれば、この俳諧一枚摺は、中村家の栄華を誇る貴重な一枚である。何と言っても、鶴童の句ぶりに圧倒される。
  朔日の空を封きる扇哉
 歌舞伎の封切りを詠んだ句だろう。「空を封きる」は比類なく、おおらかで気持ちよい。