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第19回 八朶園寥松判「後の月」2007. 9.20


縦40.0×横18.5cm



 酷暑の夏の前、六月のこと。船団「初夏の集い」の句会が、信州の諏訪湖畔で開かれた。会員ではないが、夕食会とその席での句会に参加させていただいた。船団代表坪内稔典先生はじめ、会員の皆様の作り出す雰囲気が、とにかく楽しい。たとえば、夕食会の句会の模様(記憶違いがあるかもしれません)。
 それぞれが自分の句をよむ。グループのなかで、代表句を選ぶ。選ばれた各グループから、代表句に対する応援演説をする。それを参考にして、全員で当座の一等を選ぶ。
 食物を入れた席題だった、と思うが、残念なことに句は覚えていない。メモをしておけば良かった、と後悔している。各グループで選ばれた代表句は、流石にうまい。その上、応援が滅法面白い。推薦句の優れた点をあげつらい、さりげなく他の句を貶めたり、厭味を言ったり、立て板に水、あるいは寸鉄人を刺す批評。と言えば、勘違いされる方もいるかもしれないが、笑いがあって、味があって、品があってとてつもなく楽しいのである。痛烈で辛辣な批評さえ笑いに浄化して、こころよく共有できる。船団の特長なのかもしれない。
 中原幸子さんの名句「満場の悪党諸君、月が出た」は、そんな船団の闊達で自在な場のなかで生まれたのだろう、と私は勝手に思い込んでいる。船団の「悪党諸君」は、月の美しさを共有しているから楽しいのだ、と改めて思った。後味の良い会食をともにさせていただいて、とても感謝している。


 さて、第19回の「後の月」の判者は、寥松。天保3年(1832)11月17日没。享年73、谷中常在寺に葬る、巒氏、八朶園、氷黒井、大年廬と号す、蓼大門、江戸人(『新選俳諧年表』)。最初に記された高点句の作者応声は、浅野氏、響斎と号す、抱儀門、江戸人(同)。鴬渓は、守村抱儀の妹。これ以外の人はわからない。
  画師の鴬蒲は酒井氏。「市谷浄栄寺の住職。抱一の死後、雨華庵に入り二世となる。養子ではない。天保12年7月23日没。享年34」(扶桑画人伝)。


 この一枚摺は、前回(18回)の一枚摺と、同じ大きさ。判者は蕉雨ではなく寥松だが、題詠「後の月」で、高点句を抜き出したもの。ともに文政頃出版の俳諧一枚摺だろう。