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第2回 拝名披露「生ひ初る水草や何を水のあや」2004. 5.22


縦37.5×横45.0cm






 前回は八世市川団十郎の追善一枚摺を紹介したので、今回はおめでたい俳諧一枚摺で、気分を一新したい。嵐徳三郎が、後素亭豊国から歌川国春の号を貰い受けた披露の摺物、正しい呼称があるのだろうが、わからないので「拝名披露」と仮に命名した。
 豊国は、後素亭・一陽斎・一暎斎などの別号がある。享和2年(1802)生〜天保6年(1835)没(34歳)。初代豊国の養子となって二代目を襲名したが早世、国貞が天保十五年二代豊国を名乗るに及び、後素亭豊国の存在は、国貞の影に隠れて薄い。この大ぶりの美人画は、弟子の首途への餞だろう。女形の瀬川菊之丞らの姿か? 嵐徳三郎は、二世嵐璃寛以後同家に継承される名前だが、役者を廃業して歌川国春の号を貰った人物があったかどうか知らない。役者仲間から好意的な発句を寄せられたのに、浮世絵師として活躍しなかったらしく、国春の錦絵が流布した形跡はない。
 お祝いの発句を寄せたのは、いずれも歌舞伎役者たち。三升(七世市川団十郎)、紫若(岩井粂三郎)、訥升(五世澤村宗十郎)、梅寿(三世尾上菊五郎)、歌山(二世関三十郎)、しうか(三世坂東三津五郎)、杜若(五世岩井半四郎)、梅我、市蔵、松朝(尾上多見蔵)、梅幸(四世尾上菊五郎)、芝翫(三世中村歌右衛門)、亀鶴、南北(四世鶴屋南北)、路考(四世瀬川菊之丞)、錦升(五世松本幸四郎)。( )内に名前を入れてみたが、自信がない。俳名の誤認を含めて、江湖の諸賢子のお教えを願う。
 七世団十郎の「かすむ日や極彩色の不二つくば」を始めとして、絢爛豪華、祝儀の気分があふれた景気のいい句がならんでいる。嵐徳三郎改め歌川国春絶頂のときであった。
【補訂】
 岩田秀行氏より、成立年次をはじめ、役者名および俳号についての誤読と誤認をご指摘いただきました。ここに訂正させていただき、岩田氏に感謝申し上げます。
〔俳号〕
・紫若……岩井紫若
・訥升……二代目沢村源之助(後の五代目沢村宗十郎)
・梅枝……中村歌六
・梅我……二代目岩井粂三郎
・秀朝……二代目坂東簑助
・芝翫……二代目中村芝翫
・亀鶴……三枡源之助
〔国春〕
 国春は、『浮世絵辞典』および『原色浮世絵大百科事典<浮世絵師>』によれば、「嵐冠十郎の子供で、冠之助から文政7年に徳三郎となり、病弱のため役者を廃業して、二代目歌川豊国の弟子となり、歌川国春を名乗り、のち版元を経営し、具足屋佐兵衛と名乗る。天保10年37歳で没」。『歌舞妓年代記』文政7年11月市村座に、「冠之助改嵐徳三郎」と出てくるのが、この嵐徳三郎と推察。よって、この徳三郎は二代目徳三郎と三代目徳三郎の間に位置する、正規の代数に数えられない徳三郎ということになる。
〔成立年次〕
 摺物に出てくる句は、「若鮎」「桜」「花」「茶山」は晩春、「初花」「水草生ふ」が仲春なので、改名披露摺物は、文政12年2月から計画されて、3月に行われたものと仮定できる。投句者たちの動向からも製作年次を推定する手がかりがある。沢村源之助は、文政12年2月江戸へ下り、2月16日より河原崎座出演、鶴屋南北は、文政12年11月没である。このことから、この摺物は文政12年3月の成立としてよい。また、市川団十郎、松本幸四郎、尾上菊五郎など投句者たちすべてが江戸に揃う3月は、文政12年3月以外には考えられないことも傍証となる。